交通事故と神様

神頼みはしないことにした。

私は無神論者で、神は死んだ(ニーチェ)が面白いと思う。
だが今回は別の側面から神を見た。

歴史と、統計学だ。
歴史学的に、統計学的に、神はおかしい。

例えば交通事故をしないためにお守りを買う。ところが、あまのてらすのおおみかみが、神様現役だった頃に、交通事故などあっただろうか。自動車は走っていたのだろうか。ひき逃げ、当て逃げが紀元前にあっただろうか。

従って神社のお守り販売は、後世に誰かが確率を神頼みして神様を金儲けに使うように生み出したビジネスとしか考えられない。

また、交通事故などというものは、その分布はポワソン分布である。
第一次世界大戦中に、騎馬兵の兵隊さんが偶然に馬に蹴られて死ぬ確率が研究されて発端となった、統計学のそれである。
つまり偶然にランダムで起こる事象である。
交通事故の有無や回数を、神頼みして回数が減ったり解決するはずがない。

厄年もしかりである。何歳になると厄が来るとか、バカにも程がある。お祓いの金欲しさに神社が捏造した厄年に振り回されて何万円も払う必要など無い。さらに人が暴れたりすると、その人は厄年だからなどという解説をする身内がいて、本当に恥ずかしい。

神にも縋りたい気持ちもわかるが、気休めにもならなくて、現実は神頼みしても絶対に変わらない。統計学は神を裏切る。有神論者が事故死し、神に縋った人が病死し、無神論者は何も起きないこともある。信じる信じないと、現実の統計学は、全く切り離されており、統計学が正解なのだ。それは科学だから。Scienceだから。

そもそも、最も嫌なことに、神すなわち宗教は戦争に使われる。神が人を殺すのだ。今の世で言えばイスラム教。かつて日本では神道が戦争の道具に使われた。靖国で会おうと死んで逝った人たちに、神のご加護は果たしてあっただろうか。神の名の下、死んでいった人たちは、どういう気持だったのだろうか。神や宗教は戦争の道具なのだ。人殺しの宗教には嫌悪を感じる。

私はもともと無神論者なのだが、心神深い人にしばらく騙されてしまったようだ。寺社仏閣に数百円だが金をやるようなことをしていた。自己嫌悪だ。

私は科学者である。修士でリタイヤしたが、れっきとした科学者だ。神より科学を信じる。Scienceこそ私の全てだ。だから神頼みはしない。

上記を見て、罰当たりだと思う人、その罰も統計学的事象で語れるから、サイエンスの域を出ない。自然法則は絶対なのだ。私は、神より、自分を信じる。Scienceを、信じる。科学を、信じる。

私の中で、神は、死んだ。ニーチェではなく自分の結論である。