短編小説:10円の重さ

10円の重さは10gである。小学生でも知っている。しかしこの10gが時に重すぎることがある。
1)
東京レトロ、十段下駅近くの喫茶店で、孝は昼食を食べた。初めて来た店だが、700円台と都内のカフェ飯にしては安いところで、腹をたっぷり満たした。
おっと、時間が無いや。サラリーマンの昼食休憩は1時間と法律で決まっており、短い分には良いが多く取るのは契約に反する。すぐに帰らなくては。いくらだっけな。財布から1000円をひらりと取り出し、レジの人に渡した。
「はいお釣り、240円です。ありがとうございます。」
「どうも。」
孝はいつも相手に頭を下げられるとお辞儀をしてしまう。ありがとうございます、と言われるとお礼を言ってしまう。それはまったくの癖で、それは寝癖のように普通のことだった。
孝は釣り銭を受け取り、財布に小銭を入れると、11月の寒い秋晴れの陽光の中に躍り出た。輝く空、光る雲。
まあまあのランチだったな。また来ようかな。ええと他のメニューは。
衝撃だった。全ての商品、770円。理論上のお釣りは、230円。10円多い。もらったお釣りには、10円玉は4枚入っていたはずだ。たしか。店員さんはお釣り240円ですと言っていたはずだ。たしか。
「財布に小銭を入れてしまった。。。元からあった10円玉の個数もわからないし、数え直せないよ。」
孝はその10gがあまりにも重すぎ、その重力により喫茶店の出口で2分ほどもウロウロしていた。しかし会計をして小銭を混ぜてしまってから2分20秒が経過し、レジの店員さんは給仕に行ってしまい、孝は会計をした店員さんの顔も覚えていなかった。
孝は10円をくすねてしまったかもしれないという罪の重さに耐えかねて、私は不能犯か、有罪かを検討した。
まず不能犯説を検討した。
会計時に、商品が正確にいくらか覚えていないことは私の過失だが、店員さんは声を出して金額を確認してくれて私に手渡した。私は正確な商品の金額を知らないまま、お釣りを受け取った事になる。
よく言えば、それは善良な市民が、店員さんが商品の金額を正確に計算してくれると期待して会計を任せてその釣り銭を受け取ったのだし、会計の確認を任せた結果の金額なのだから、例え釣り銭が間違っていて多く受け取ってしまっても、善良な市民の責任は問われないはずだ。
それに、後から10円を返そうとしても、店員さんが立ち去り、返せないではないか。すなわち私は不能犯だ。
そう思った瞬間、孝は何か救われた気がしないでもなかった。
しかし有罪説があった。
孝は会計を故意に誤魔化した訳ではないが、商品価格の確認を怠り、釣り銭の確認も怠った不良市民は、釣り銭が多い事に気付きながら、その釣り銭を返却しなかったのだから、それは泥棒、すなわち占有物脱離横領なのであった。
晴れた輝く空はあっという間に濃紺になり、輝く雲は灰色の暗雲になってしまった。目の前は暗くなり、自分はコソ泥して逃げる犯人の類のように感じた。
「財布に入れてしまったし、正しく数え直せない。店員さんもいなくなってしまい、仕方ないじゃないか。」
その本来より10gきっかり重いと思われる財布を、孝はやおらポケットに突っ込んでしまった。そしてカフェの前を立ち去ってしまった。まったく疲れた表情で。
その時の財布を入れたポッケの重さはひどく重く感じ、孝は右に10度くらい体を傾けながら、フラフラして帰ったという。まるで10kgの重りを持っているかのような姿で。
2)
孝は花金の夜に飲みに行き、終電で帰る事になった。
「おっと、電車の時刻まであと4分あるから、お手洗いに行っておこう。」
孝は混雑した旧宿駅のトイレの行列に並んだ。
「あれっ?」
孝は例によって、先日その重さを味わったばかりの10円玉が、駅のトイレ前に落ちているのを見つけてしまった。
通常、その場合の隆の行動は決まっている。落ちている現金を見つけたら、その場所の所有者かお巡りさんに届けるのだ。ネコババしたことは1度もないし、ドリフのコントではないが、1円玉ですら駅員さんやお巡りさんに届け出たことも5回もある。そうするとひどく感謝されてかえって面喰らうことも多かったが、たしかに、現金は、その価値以上に、重いのだった。
「終電間際か。改札に届け出ると間に合わないな。どうしよう。」
目の前の10円玉は誰かの落し物に違いなく、少なくとも孝にとっては届け出るべき類のものであった。しかし、花金の旧宿駅は超、大混雑で、改札の駅員さんに10円を届けるのには往復で優に8分はかかる。
「うーん、どう頑張っても時間がない。仮にトイレを我慢して走って改札に届けても間に合わない。だいいち大混雑で走れないではないか。」
孝はうなだれ、諦めてその場を立ち去ってしまった。しかし電車は6分遅れており、別路線での終電はまだあったことがわかってしまった。
「落し物の現金を故意に届け出ないのは犯罪じゃないかな。届け出ることは可能だったし、不能犯でもないや。どうしよう。」
国庫に収まるべきその10円は、どうなったのかずっと気になり、その日は2時間も寝付けなかった。時は金なりで金銭換算をすると、時給1000円としても、10円を届け損ねたせいで2000円も損失が出てしまった。
3)
現金は重たい。それは孝が銀行の勘定系システムを作ってきたから、知っていることだった。銀行では、当日の現金が1円でも合わないと、出納事故の処理をしなくてはならない。その処理はひどく面倒で、しかも支店長の決済が都度必要だった。
そして当たり前だが、その現金を電子の現金として計算するシステム、すなわち孝が作ってきたシステムは、何千万、何億円扱おうとも1円の誤差も許されなかった。これは銀行どころか財務省により1円の誤差も許されないことが定められており、小数点下の計算も普通の四捨五入も、切り上げも、切り捨ても許されず、利子、利息の計算は気が狂うようなものだった。だから計算結果が1円違うだけでシステムは納品出来ないし、その1円を合わせるために3徹してシステムを改修したこともあった。
だから孝には、1円は1g以上に重く、10円10gとなればもはや大金で、そんな誤差を出したら直ちにクビになってしまうくらい重かった。
そんなこんなで、孝は、落し物の1円を届け出ないで放置する行為も犯罪に思えたし、釣り銭10円をくすねるなど、それこそ、とんでもない極悪非道の行為なのだった。
「職業病なのかな。」
寝付けない枕の上で孝は考える。その10円の重さについて。自分がくすねてしまった、置き去りにしてしまった、10円について。