私の生き方とその流れ

 

木島隆(↑これ)の人生の経緯について写真付きで述べたい。

2016年。

東証一部ソフトウェア会社入社。記念に、人生初めてローンを組んで、ポルシェを買った。ポルシェ、ボクスター。オープンカー。dscf2782_r

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ところがそのオープンカー、到着時には壊れていて、ディーラー修理に出したら20万円かかった。ほかの不具合の記録もあり、全部直すとあと30万円だと言われた。慌てて民間のポルシェが得意と言う工場にもっていったら、全部直すのに200万円以上と言われた。

とにかく、故障癖のあるポルシェで、大変だ。今まで乗っていたBMW Z3の修理費が可愛く思えてしまう。

 

2015年。

激動の年だった。

上手くいっていた3M系カード会社の案件がひどく怪しくなり、銀行系事業会社のプロマネがコロコロ変わった。あるプロマネは、進捗管理その他重要な部分は事業会社がやることにする、と宣言して僕の仕事を全部持って行ったが、すぐに破綻。プロジェクトがみるみる傾きだし、たった3ヶ月でその人はプロマネの席を追われた。

みんながみんなアップアップしてきた。もうまずい、という段になって、ビックブルーは限界まで搾り取られてもう嫌だとなり、大幅減員。そのタイミングで、僕もプロジェクトを追い出されることになった。ビックブルーの人に挨拶に行くと、ビックブルーの人は、ハンティングの話はもう1年チャンスをあげるよ、よく勉強して、と言ってくれた。最後のチャンス。

僕は今度はとある世界的外資のWeb系アシスタントマネージャーとして、どことは言わないが都内でも大学の集まる靖国神社に程近いエリアでまた派遣で働くことになった。

外資は本当に社風が僕に合っている感じがした。なんと外資のそのフロアの社長とも仲良くなり、コーヒーメーカーの前でいつもよく小話をした。(外資はコーヒー飲み放題なのだ。1日6杯は飲んだ。)

正直僕はWeb系のことはフリーランスで一通りやってきたが、世界的外資のウェブサイトの監修なんてやったことがない。しかも、社内SEとしてではなく外資の社員扱いでの顧客位置でのポジションのため、はっきり言えば、後ろが無かった。

必死にGoogleAnaliticsとJIRAの勉強をした。テストを1日200件もやることがあった。モンキーテストで25件もバグを出してびっくりされたことがあった。UATをすると僕は他人の2.5倍以上バグを出すため、ベンダーや社内SEの人には「悪魔」とささやかれた。内実、サニタイジングがちゃんとされていないので「?」や「$」や「\」をうまく使うと、簡単にシステムが落ちてしまうのだ。そんなことも私は「最終関門」を司る番人として、世間に出る前のサイト、システムを全部検査し、もれなくバグをつぶした。

このプロジェクトで面白かったのはアメリカでのシステム開発だ。僕たちは当然日本サイトだ。ベンダがアメリカで、システムはアメリカで作られている。時差が10時間ある。なので、朝来て夕方までにテストをやっつけておくと、日本が夜のうちにアメリカが日中になるので直してくれて、朝来る頃にはシステムが直っている、といった算段だ。時差を利用したワンナイト修正のクイックさは面白かった。

そしてビックブルーの人との約束があった。僕は必死に英語を勉強した。そして、2015年最後のTOEIC、610だった。ビックブルーは730以上ないとダメなのだ。全然届かなかった。最後の世界企業への夢、破れる。

そしてプライベートで人生初にして最大の危機があった。前職の同僚で大変仲が良かった女性に、やっぱり絶対にその人のことを好きだから真剣に結婚を申し込みたいと決意し、絶縁してから3年ぶりに連絡し、会いたいといったところ、結婚することになりばたばた忙しいのでごめんなさい、と言われた。それが2015年の2月の話。

さすがに34歳で最後の恋を決意した後のローズマリー(loose marry、失婚)は手痛く、1年ほぼ棒に振ってしまった。失恋どころの騒ぎではない。失婚は人生の破綻も同義語で、血反吐を吐くような苦しみから這い上がり仕事をしないといけないというきついきつい1年だった。

ビックブルーがNGとなり、中小企業にうんざりした私は、改めて転職活動をする決意をした。そして12月の暮れも迫るころ、いきなり転職宣言をして転職活動を開始した。ターゲットは2016年4月入社。

<34歳ドタバタ転職活動>
終息宣言。
某・中堅クラス東証一部IT企業で内定獲得。同時並行した某中堅を超え大手に入れてもよさそうなIT企業、落ちた。
落ち方が無残で(本人が能力を過大評価していた、所詮派遣で入った企業の伝言役だった、とかなんとか)癪に障ったが、悪いが私を採らなかった、あちらの損失のほうが大きいや。と思うことにした。
肝据わって行き先決めました。(生き先決めました。)
現職での2015年の年収、353万1954円。(今年に届いた源泉徴収票より。)
新職での2016年の年収、559万5500円。(月20h残業込・想定)
年収206万3546円UP!!
転職で年収200万UPなど半端ない数字!!!
超ミラクル。
しかも派遣を業態とする会社から、東証一部の正社員!!!
たとえ、貧乏と絶望と志亡に追われて逃げるような転職活動でも、未来を語り、自分を語り、夢を語る青年(34歳だが)を東証一部IT企業は見捨てなかった!
うれすぃい!
やった!転職活動大成功!
私の未来は大きく開けた!
2015年、2月22日と8月1日と11月3日に危うく三途の川を自ら泳いで渡りそうになった私めが、わずか3か月足らずの間に回復して、人生最大の勝利を勝ち得ました!生まれ変わります!
新卒で富士通子会社に入社した時より、今のほうがとてもうれしい!
そして新職の人事、めちゃめちゃかわいいです!
入社したら・・・むっふっふっ。(笑)
ハッピーエンドじゃん!!
<転職活動期間>
(開始から内定受諾まで)
2015/12/16-2016/2/2 (48日間)
<転職活動統計値>
応募総数  47 社 ↓ 以下%母数は応募総数に対し
書類通過数 11 社(通過率23.40%)
1次面接数  7 社(獲得率14.89%)
2次面接数   2 社(獲得率4.26%)
内定数    1 社(獲得率2.13%)

というわけで、東証一部上場のソフトウェア会社に転職が決まった。

 

2013年-2015年のごく初めまで。

フリーランスのコンサルタントから、やっぱりもう一回就職してみよう、と決意した。といっても元富士通子会社の経歴とフリーランス1年半の経歴(転職市場上は実質上のブランク扱い)だけで雇ってくれる所はない。大手全滅。小さい会社からオファーはたくさん来るが、どうしようか迷っていた。

結局、金が無くなる方が早かった。急いで就活を進めると、1年以上のブランクで、買い叩かれた。結局、想定年収は350万円という(新卒の時の年収と同じ。。。)会社が一番条件面が良く、就職。社員数100人のSESをしている会社だった。

当時、SESというのは何のことか良く判らなかったが、平たく言えば派遣のようなもの。BP(ビジネスパートナー)、協力会社と呼ばれる2次受け、3次受け、4次受けのような身分だった。

1ヶ月本社に居て、あちこちに面談に行った。面談というのは簡単に言うと商談で、「この人を月いくらで働かしてやってくれませんかねぇ。」という御用聞きだ。通称ドナドナ。私は銀行系SEだったので銀行系プロジェクトばかり回ったが、全然的外れの案件も多数あった。その中で、3M銀行系のカード会社の超大規模プロジェクトでプロジェクト支援という名目で急募があり、即決定した。

3Mカード会社系の大規模PJは正直初めてで、銀行系SEからしたら中身がちんぷんかんぷんだったが、とにかく都内の東の外れの運河に面した日当たりの良い、ものすごい大きいビルで働くことになった。そのビルは100m×300mもあるような横に巨大なビルで、ものすごい容積があり、都内にこんなでかいビルがあるとは全く思わなかったが、何の因果でこのような巨大ビルで働くのだろう、と思った。ただしその巨大ビルは、地下鉄の駅から徒歩14分もかかって、あまりにも遠すぎるので高速バス並みの大きさのシャトルバスがビルと駅を昼夜問わず往復していた。

そのプロジェクトは250人規模で、天下のビックブルーが100、独立系が10ずつで残りを占め、銀行系事業会社が100名。工程は要件定義の開始だった。

進捗資料が無いので作ってほしいと言われ、正直全く慣れてないExcelの関数を1シート1000個のマトリックス全部に埋め込んだりして(正直、当時僕はSUMIFSや$を使いこなせていなかった)、徹夜するくらいの勢いで全関数化した自動計算進捗資料を用意した。(実際は徹夜せずに毎日終電だった。)

そのうち、22:30になるとすごい勢いで職場をすっ飛んでシャトルバスに乗り込む私は職場で一躍有名人になってしまった。進捗の人?ああ木島君ね。あの人はいつも22:30までいるけど、22:30過ぎるとダッシュして居なくなるんだよ、と、誰もが知る木島君になった。

木島君は、臆せずビックブルーの人たちの間を歩き回っては、プロマネ(プロジェクトマネージャー、略称PM)に話しかけていった。銀行系事業会社の人に気に入られて、なんとなく僕が250名規模のプロジェクトの進捗管理を任されることになったためだ。

あまりにビックブルーのリーダーやプロマネの中に自然に入り込んでいく様から、事業会社の人はほとんど僕をビックブルー専任の万能支援係として使い出した。そしてそれがうまく回り、なぜか事業会社の人がビックブルーに話すより、木島君を介してビックブルーと話すとうまくまとまったり妥協案がきれいにまとまる、と噂になった。そして、銀行系事業会社、ビックブルー両社のプロマネと、まったく仲良くなってしまった。

いつの間にか、僕はプロジェクトには無くては成らない進捗係となり、当時の社内用語ではないが、一般的な意味での庶務的PMO、戦略的PMOとなった。PMOの本も何冊も買って読んだがどれも使い物にならなかった。何よりビックブルーへの実践、というより実戦のほうがはるかに役に立ったし経験値が上がった。ビックブルーのプロマネにして、「木島君は手ごわい、事業会社の人以上だよ」、と言われたり、事業会社の人からは、「いや神様、また来ていただきましたなぁ。」などと冗談を言われ、トレースの神様、鬼のトレースなどと僕の会議の取りまとめやその後の追跡調査を褒め讃えられた。

プロジェクトが傾くたび、木島は飛んで回って各所を調整した。ビックブルーが撤退すると本気で言うようになってからは、それこそ事業会社の代理として僕が全面的に客観的な仲介役になって、事業会社とビックブルーの間を取りまとめ、プロジェクトの強大な柱の「破断」を防ぐ緩衝材となった。

2013年の年末押し迫った最終日、運河に面したセレクトショップでオープンカーに乗るときに巻くスカーフを買って店を出たところ、ビックブルーのリーダープロマネの面々とカチ合わせ。そのまま拉致されるように忘年会に連れていかれ、あの天下のビックブルーのプロマネ自ら、いち中小企業の社員である僕に「BPとしてではなく、うちの社員として一緒に働きませんか。」と言われた。まさかの世界的ビックブルーへの、ハンティングだった。

衝撃のあまり即答できなかったが、一生中小企業社員でBP格、平たく言うと会社のために派遣でセコセコ稼ぐ、みたいな人生は僕には考えられず、世界的企業ビックブルーに絶対にチャレンジしたいと思った。年も開け20日ほどたって、決意して、「よろしくお願いします。」と頭を下げに行った。

数日後、ビックブルーの人が僕のところに来て、「木島君英語出来る?」などと聞くので、「いや出来ません、TOEIC450くらいしか無いですよ。」と言うと、ビックブルーの人は衝撃を受けたらしく、黙ってしまった。聞くところによると、ビックブルーでは、入社試験が英語で、しかもTOEIC730以上ないと試験そのものが受けられないという。ショックだった。しかしビックブルーの人は、1年くらいなら待ってあげるから勉強してごらん、と僕に言う。33歳にして狂ったように英語の勉強を始める僕。そして1年後のTOEIC、530だった。ビックブルーには、はるかに届かなかった。私の世界企業への夢は挫折してしまった。

2009年~2012年。

執筆中

2008年。

東京海洋大学大学院、博士前期課程修了。生命科学の修士号を得た。そして、就職。人生変わった。

富士通の子会社の入社式の前日、つまり3月31日の22:00まで研究室に籠り研究の引継ぎや整理をしていたので、翌日の入社式に、遅刻。社長挨拶には間に合ったが、スタートの悪い社会人人生だった。

入社式後のパーティーで、率先して皆が飲み終わった缶や皿を整理、後片付けまで手伝った。あまりにぐいぐい先導して新入社員(同期)を引っ張っていくため、人事の人が4回も「ちょっとちょっと、あなたのお名前は?」と聞いてきたが、その都度「また木島君か!」と言われた。よほどリーダーシップのある人はこの社には珍しいのだろう。自主判断、自主行動のできる目立つ子であることがばれてしまった。

何の因果か、あれほど嫌だった銀行SEを希望、見事に通ってしまった。

準大手の都銀に配属、常駐。2人きりで常駐だったが、いきなり稼働前システムのリグレッションテストを行い、Oracleをいじりまくった。SQLに詳しくなりすぎて、先輩にSQLを聞かれる有様だった。テスト環境はもちろん、本番環境にも触り、データセンターの本番機にもセッティング&試験に行った。真夏に冷蔵庫のような本番ルームに入り、トイレが許可されなかったので、4時間も我慢していたりした。その後1年目にして、その都銀の次期システムの要件定義までやってしまった。

 

2007年。

世界のトップを狙う壮大な研究が次々と暗礁に乗り上げる中、予防線として取ってあったDNA鑑定による「キンギョの起源の研究」と、純粋に私が生み出した「国の天然記念物・鉄魚の起源の研究」が着実に実りつつあった。「キンギョの起源の研究」は2008年に科学雑誌に発表され、「鉄魚の起源の研究」も2015年に科学雑誌に発表された。たしかに私は科学界で生きていた功績を少しだけ残すことが出来た。

博士後期課程への進学は真剣に考えたが、学費が完全に底をついてしまったこと、博士になってもその将来がポスドクや特任講師、特任教授といった非常に長い薄給の非正規雇用の道を歩むこと、また当時の業績の不足や圧倒的な実験力の不足で、将来博士として生きていく人生に疑問を持つことになった。(白楽ロックビルとか100人の博士のいる村とかを読むと事情は察せられるだろう。)

そしてその逃げたい衝動、安定した人生を得たい衝動から、就活への道を踏み出した。

製薬、研究職、MR、全敗。大手商社、全敗。大手企業、全敗。就活仲間の早稲田の人たちが簡単に書類と面接だけで内定をもらう中、完全内定0。ほんとうに痛いほど国立最下位の大学の力の程を思い知った。

就活は苦渋の道で、証明写真が300枚以上なくなっている。使ってしまった。製薬MRはほぼ全社受けた(約100社)が全滅。MSも受けたが2次で敗退。医薬系は諦めざるを得なかった。

正当な秋葉原系(当時の秋葉原系は純粋なPCマニアのことを差す)だったので、当然SE職も射程に入ってくるわけだが、「夜も眠れぬ銀行SE」などという本を読み、そんな人生嫌だと思って避けて通ろうとした。(が銀行SEになってしまった。。。)

ところがどっこい、医薬品系が全滅してみて、通るのがSIerの選考ばかり。SE系職種に活路を見出す以外なくなり、大学の情報処理センターでお世話になっていた富士通の常駐SEのアドバイスを受け富士通の選考会に。そこで富士通子会社を紹介され、1次面接で「魚の成長は止まらない。永遠に成長し続けるのが魚。」と珍妙な発言をしたことで注目を浴び、とんとんと進み、最終面接。OK。決まった。

そんなわけで、新卒は富士通の子会社に決めた。(2016年11月に富士通本体に吸収合併されたが、もう退職していた。悔しい。)

ただ、博士や研究職への非常に強い未練が残った。私の人生これでよかったのだろうか、といつもこのターニングポイントを振り返ることとなる。多くの教授たちが本当に就職で良いのかと私を引き止めてくれた。つまり才能があるから引き止めてくれていた。それを振り切って、就職します、と言って出て行ってしまった私はやはりChikinだった。

 

2006年。

大学卒業の年。記念にヌメ革でパスケースを作った。2015年現在、まだ現役で使っている。本当に人生を共にしてきたパスケースだ。

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もう1つ、ITに目覚めてしまった。もともと自作PCマニアであったが、釣船の船長の、インターネットの情報を統合して船の上でリアルタイムで見たいとの要望を受け、当時まだほとんど無かったタッチパネルPC(NECパネリーナ)を使って、携帯電話の9600bpsの回線で出航前に情報を取得することで、船の上で天気予報、波高、タイド(潮時表)、人工衛星計測による海水温、GPSを使った航路表示、ナビゲーション、ポイント記録、対地スピード計を兼ね備えた「船舶搭載パソコン」を完成させた。

全てありふれた技術のみ使って、本当に有用なものを自らの手で創り上げるというIT技術の面白いところを体験したことで、また私の人生が大きく変わるきっかけとなる。写真が実際に作った「船舶搭載パソコン」。

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2005年。

2001年の初恋の人に振られて、衝撃のあまり傷心旅行に出た。あまりの落ち込みように周囲は自殺しないか気を揉んだという。

その純情ぶりが周囲に伝わるやいなや、同窓生や近くのゼミ生から急にモテモテになってしまって、その状態の異常さに困った。「熱帯魚飼う水槽を買うから家まで運ぶの付き合って。」とか、「足を怪我してしまったので車で家まで送ってほしい」とか、「放射性同位体を使う難しい実験が怖いから一緒にやってほしい」とか、断り切れない申し込みが次々来て、都度本当に困った。

写真は失恋旅行で青春18きっぷで行ってきた広島県の安芸の宮島、厳島神社。たしかこの後、台風で崩壊してしまったのでひょっとしたら貴重な写真かもしれないので載せておく。

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失恋旅行で訪れた原爆ドーム。失恋より遥かに重く辛いことがここにはあると思い、立ち直りのきっかけとなった。

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私の主任教授、岡本信明教授。留年した私を、その研究熱意を見抜いて、留年中でもいいから来て好きなだけ実験しなさい、と言って拾ってくれた人。当時、東京水産大学の副学長で、私の卒業後、学長になられた。 この汚い乱雑な研究室が、ほとんど私の住処だった。CIMG0651

 

隣の研究室の吉崎悟郎教授にも、とてもお世話になった。吉崎教授は2008年に科学雑誌のトップであるScienceに見事載せて、世界の頂点に立った人だ。写真は、吉崎先生の考案で始めた、ホルモン注射によるキンギョの性行動の誘発実験。私が工夫し、SONY VAIO C1を持ち込んで、ビデオでリアルタイム解析できるようにした。そして、オスに女性ホルモンであるエストロジェンを打つと、直ちに体内でフェロモンに変換され、他のオスが注射オスをメスと勘違いして追い回すという「オカマ現象」が発生することを魚類でおそらく初めて発見した。さすが、吉崎先生には先見の明がある。

そして私は、生化学物質を注射されて簡単に恋(それもオカマまで)してしまう魚を見て、「恋はケミカルだ」との名言を残した。つまり科学者として見れば、化学物質を打つだけで脊椎動物でも簡単に発情してしまうということがわかってしまったのだ。恋も化学物質により支配されている。すなわち「恋はケミカルだ」。CIMG0655

 

子供の頃から夢見ていた立派な科学者となった私。魚のオカマ化はやり過ぎたけれど、水産学学士、生命科学博士前期課程。専門はDNA鑑定、ゲノムサイエンス。トランスポゾンやエピジェネティックといった特殊で未解明な分野に本気で挑み、正気で本気で博士を、それも世界の頂点を目指していた。そしてそれは主任教授も知っていたし、それがために私が壮大な研究をぶち立ててScienceやNatureを狙うことも承知してくれ、研究費もケチらず使っていいと言ってくれた。本当に有り難かったが、ただひとつ、私は図抜けて科学の未知の領域を攻める戦略を立てるすばらしい能力がありそれは誰でも認めてくれたが、しかしその証明のための実験が、おそろしく下手だった。DSCF0018

 

2004年。

休学して研究と釣りに埋没した私。東京湾じゅうの魚が絶滅するんじゃないかというくらい釣りまくった。もう私に釣りで勝てる人は周りにいなくなり、ついに船長まで木島のほうが自分より釣りが上手いと認めるようになり、私と同じ船に乗るのを皆が嫌がるようになった。隣で釣られすぎて調子が狂うとか、魚が居なくなってしまうとか、木島だけ釣れて自分が悪い星の下に産まれてきたように思ってしまうとか。とにかく狂うほど釣りまくった。そして敵無しになってしまった。釣船乗組員としても高校生から5年やっていたし、釣りをある種、極めてしまったのだと思う。

釣り船を引退して地元北海道に移住しようと考えている人から釣り船とマンションを譲り受ける打診も受けたが、あまりに貧乏で借金まみれの千葉の釣り船屋の中で、釣り船屋の船長として一生を生きていけるのか心配は尽きず、その話はご破産にしてしまった。そうでなければ、私は海の男になっていただろう。思えばここも大きな人生の岐路だった。

大学でコトラーのマーケティング論を学んで、インターネットマーケティングに目覚めたのもこの時期だった。当時相当傾いていた釣り船屋2件をホームページと掲示板での釣りの結果の写真付き即日配信、加えて雑誌媒体への出稿で立て直せると直感し、ホームページと掲示板を無償で作ってあげて作ってすべての算段を整えた。これで今までの見込み客への電話攻勢より遥かに安く効率よく集客できたし、私もコトラーが実践で生きることに喜びを感じて、インターネットの力の大きさに驚いた。船釣りという本当にニッチな分野なのにインターネットによる集客効果は本当にばかでかく、恐ろしいほどの効果があった。その釣船の約半分の客がインターネットがきっかけで来てくれ、全体の90%の客がインターネットで釣果を確認しているという有様だった。魚以外のネット上の見込み客も一網打尽に釣り上げた、釣り師兼乗組員。釣らせても、マーケティングさせても、我ながらほんとうに凄かった。

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2003年。

学業にはすごく熱心だったが、数学の微積分のわずか1科目2単位で基礎科目が修了できていないといかいう変なルールで留年した。頭にきたので単位取りまくって、卒論以外の単位を全部満了して、1年間休学して学費を1年分収めなかった。休学中、その大学の研究費をふんだんに使ったDNA鑑定法を研究。能力があるのに意味のない留年をさせた大学へのささやかな復讐。もう一つ、近畿大学水産学部に転入学試験を申し込み、テストに100点満点のスコアで合格。マグロの近大に電撃移籍で留年を回避する手段も自ら発見して作っていたのだ。近大に行かなかったのだから水大には感謝して欲しい。

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シイラ。129cm。私が釣った獲物の中では生涯で2番目に大きい。shiira129

 

2002年。

水産大での学業に加え釣船の乗組員となり、ますます釣り狂う私。東京湾アクアライン下でのシーバス、74cm。

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夏タチウオ。dsc02999

相変わらず撮る位置もポーズも姿形も変わっていない。dsc03009

 

2001年。

東京水産大学、資源育成学科、入学。

なんと入学手続きで部活の勧誘を受け、一目惚れしてしまったその人と一緒に歌いたくて入学前に合唱部に入った。(半年で揉め事を起こして辞めてしまったが。)あの人がたぶん人生で初めての恋と定義できるだろう。カウントすると大学院修士終了まで、その初恋の人に7年間惚れていたことになるか。

東京女子医科大学との協業合唱部だったため、お医者さんの卵ともメル友になった。お互い大学のメールアドレスでやり取りしていた。もう今では繋がっていないが、当時が懐かしい。

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フラットベットスキャナとペンギン型スピーカー、手元ライトを装備し、PC環境が整ってきた。なお手元ライトは2015年のこれを執筆時にも全く同じものを使っている(中の蛍光ランプは変えたが)。ペンギンPCケースも現役ではないが足元に鎮座している。本当に私の持ち物は長持ちだ。dsc02695

カワハギに接吻しようとする私。

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サバ釣って喜ぶ私。

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2000年。

高校を卒業した年。代ゼミでの浪人生活に入る。(正確には代ゼミは学校法人だから私は学籍があったと強弁することも出来る。実際、学生証もあり、定期は学割であった。可哀想に駿台生はそれが出来ない。)

なお偏差値は英語68、数学38、国語62、生物72、地理62であった。英語できるんだから早慶上智とか明中法を十分狙えたし、日東駒専は余裕だった。代ゼミの英語の先生は早稲田を強く勧めてくれた。本当に強く。君なら行けるよ!って。

なのに、なぜ文系を捨てて理系の国立の最下位のような水産大に迷い込んだのか、今でもよくわからない。それは小学生の頃から生物好きで、博士を目指したいと卒業論文に書いたことが影響したのだろう。そして釣り好き、魚好きだったので、当時はまだいなかった「さかなクン」を目指したのかもしれない。なお「さかなクン」は博士ではない。彼にでも博士は取れないのだ。それを私は目指し、家計に優しい国立大学を受験したのだろう。使える学費はごく少なかった。私立に行っていたら破産していただろう。だがもし早稲田に行ければ、私の人生は今の形ではなく、大きく変わっていただろう。悔しいことに私立への未練を残さぬため、理系足留め私立以外は受験すらしなかった。

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今とあまり顔つきが変わっていない。(少々太ったことを除けば。)

 

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たまーにセルフィを取ることもあった。年に5枚程度。dsc01870

初めて鮎を釣ったのもこの年。千葉県の湊川。しらすを餌にして、ウキ仕掛けで釣った。dsc02006

当時としては珍しい電子辞書持ちだった。結構役に立った。下記はエラー画面が出たところ。dsc02031

なんと電子辞書が0と1で構成されているという衝撃のバグ映像を目にしてしまったので、この後の人生設計に影響を及ぼす。dsc02032

人はあまり成長しないものだ。能力は成長するが顔などちっとも変わらないものだと思う。髪型も、メガネかけているところも、当時も今も何も変わらない。そして当時のメガネも、今も引き出しにちゃんと入っている。その厳密なコレクターぶりも変わらない。

 

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1999年。

すでに秋葉原に通い始めていた私は、ZOA秋葉原本店でペンギン型ケースを入手。NEC、PC9821 ValueStarを卒業し、PC自作マニアへの道を走る。マイクロソフトのジョイスティックも装備し、毎朝Microsoft FlightSimulator95(フライトシミュレーター)で成田から羽田まで747を飛ばしてから高校に行くフライト青年だった。

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モニタとマイクとスピーカーがNEC PC9821ValueStarからのお下がり。dsc01602

 

自宅でシルバーアロワナを飼う熱帯魚青年でもあった。pdrm0045

高校での私。dsc01002

同じく。シャープペンシルとペン型消しゴムを胸ポケットに挿してどこでも移動するのが私の流儀だった。dsc01007

同じく。夏服。やはり胸にシャーペンと消しゴム。dsc01015

 

メールだけで通信費月4000円もかけてしまうほどであった。アナログ回線は早々に卒業しISDNにしたが通信費は馬鹿にならなかった。メル友は携帯とMoperaでメールを受信してくれたが、ある時私がメールを送りすぎて、パケ代月7万円もかかってしまったという。背景のモニタにも超長文メールが読み取れる。dsc01588

 

1998年。

遡れる私の最古のデジカメ写真。FUJIFILM、DS-10。35万画素。当時高校1年の私はこのデジカメで世界を手に入れた。メガネフレームはNikonのCREW。レンズはPENTAXと、当時から光学オタクだった節がある。身長177cm、体重46kg。

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当時生物部に所属し、デジカメで顕微鏡写真を撮影するという当時としては偉業をすでにしていた。写真は魚の赤血球。そう、当時から生物バカで、生物学博士を目指していたのだ。dsc00327

 

高校のイングリッシュセミナールームで格好をつける私。DOS3.1のオンボロシステムで、音声のヘッドフォン一斉配信や、○×ボタンクイズなどができる当時としては珍しいシステムがあった。dsc00002

実体顕微鏡でヒキガエルの発生の観察もしていた。修士卒の熱心な田中一行先生に支えられ、今の私はいる。dsc00104